私的漫画世界|細野不二彦|あどりぶシネ倶楽部
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執筆活動が長い細野さんの作品は三期に分けられます。初期(1979年-1986年)は少年誌に執筆していた時期であり,「GUGUガンモ」,「さすがの猿飛」,「どっきりドクター」,「東京探偵団」に代表される作品を発表しています。少年誌ということもあり,おもしろさはあっても深みはありません。
過渡期(1986年-1991年)になると青年誌に活動を移し,「うるばーしていBOYS」,「あどりぶシネ倶楽部」,「Blowup」,「リざべーしょんプリーズ」などを発表しています。この時期は細野にとって少年マンガから大人マンガへの過渡期の時期であり,彼自身としても将来の作品スタイルを模索していた時期のように感じられます。
後期(1994年-)には「ギャラリーフェイク」,「ダブル・フェイス」,「電波の城」というような長編を発表しています。後期のいわゆる業界ものは多くの支持を集めており,氏の代表作は聞かれると「ギャラリーフェイク」と答える方が多いことでしょう。
しかし,個人的には氏の代表作は「あどりぶシネ倶楽部(1986年)」,「うしばーしていBOYS(1988年)」,「Blowup(1988-1989年)」の三部作であると考えています。描かれている主人公は大学生あるいは大学を中退したフリーターであり,社会人となる一歩手前のいわばモラトリアムの時期に該当します。
「モラトリアム」とは心理学者エリク・H・エリクソンによって心理学に導入された概念であり,本来は大人になるために必要な社会的にも認められた猶予期間を意味します。
日本では小此木啓吾の「モラトリアム人間の時代(1978年)」の影響により,社会的に認められた期間を過ぎているにもかかわらず猶予を求める状態として,否定的意味合いで用いられることが多いのですが,本来の意味は人生に必要な選択期間ということができます。
分かりやすい例は学生です。義務教育を終えた年代は法的には働くことが可能ですが,学生として学びながらあるいは職業訓練を受けながら自分の人生の選択を模索することもできます。このようなモラトリアムの時期は人生にとって必要なものであり,この時期をどのように生きるかにより,その後の人生は大きく変わっていきます。
そのような揺れ動く時期の物語を描かかせると細野は独特の味を出してくれます。この時期の作品は映画の「青春グラフティ」を見ているようにわくわくします。とはいうものの,一人の作家がこのような作品を描けるのは作家人生のほんの一時期のことでしょう。
1960年代の末から70年代の初めにかけて日本全国を席巻していた「大学紛争」は急速に衰退していきます。その時期を境に大学は社会の先駆者としての地位を放棄し,次第に「遊びの場」と化していきます。1980年代にはバブル景気も後押しして,大学生がカフェ,ディスコに通い,サークル活動やイベント,海外旅行,ブランド物に情熱を燃やす時代となります。
上記の三部作が執筆されたのはまさにそのような時期です。少年誌で活動していた細野が青年誌に活動の場を移すにあたり,選んだ題材は授業以外のものに熱中する,適度に硬派の,適度に軟派の大学生の姿でした。これらは大学を巡る社会情勢と細野の時間軸が一致したことにより描けた作品群だと考えます。
これらの三部作は単行本で1-2冊の長さであり,同じような一話完結のスタイルでありながら,長編では味わうことのできない珠玉の名編が散りばめられています。
とはいうものの,これらの三部作は同じテーマを扱っているわけではありません。「あどりぶシネクラブ」は硬派と軟派の入り混じった映画制作サークルを題材としており,「うしばーしていBOYS」はひたすら軟派のサボテン愛好会,「Blowup」は有名大学を中退してミュージシャンを目指す若者が描かれています。
それぞれ与えられた時間軸と環境でどのように自分の将来像を描こうとするかは個人の自由であり,硬派のサークルが是で軟派のサークルはけしからんというものではありません。モラトリアムの時代に限らず人生の多様性は尊重されなければなりません。どのような人生を送るかは個人の選択であり,その結果に責任を取らなければならないのも個人なのです。
もっとも,現在では「モラトリアム人間の時代(1978年)」がさらに進展して「ニート(若年無業者)」が大きな社会問題となっています。ニートとは英語のNEET(not in education, employment or training)と定義され,教育,労働,職業訓練のいずれにも参加していない状態を意味しています。
日本における若年無業者(ニート)の算出方法は厚生労働省の定義に基づいており,15ー34歳の非労働力人口の中から学生,専業主婦,家事手伝いを除き,求職活動に至っていない者と定義されています。2010年の厚生労働省統計ではニートが約60万人,世代人口の2%を越えています。
34歳のニートが35歳になったら働くわけではありませんので,実家に寄生する中高年「パラサイト」になります。このような人たちは「働くことが卑しいことである」あるいは「親が死んだら生活保護を受ければよい」などと堂々と発言しており,ネット上でも物議をかもしています。
親が存命中は実家のパラサイトとなり,親が亡くなったら社会のパラサイトになるような人々をどのように扱うかは,社会として考えなければならない時代になっています。社会のセーフティネットは身体的な理由により十分に働けない,あるいは努力をしたけれども経済的には自立できない人々のためめのものであり,人生の大半を怠けて過ごしたような人に適用されるべきではありません。自由意志による選択と結果責任は一体のものでなければなりません。