風の谷のナウシカ
孤立する宮崎駿
風の谷のナウシカ 宮崎駿
影絵が趣味
影絵が趣味
漫画史というものを俯瞰してみるにあたり、その位置づけにいつも困り果ててしまう漫画家がふたりいる。ひとりは楳図かずお。彼はいったいどこから来て、どこへ行ったのだろうか。唯一、遠い縁戚として認められそうなのは『洗礼』を平成の世に蘇らせた岡崎京子の『ヘルタースケルター』のみ。彼の漫画は漫画と呼ぶには、どうもしっくりこなくて、『楳図かずお』と、カッコ付きの固有名詞をあてはめたほうが相応しいような気がする。そして、もうひとりが宮崎駿だ。 コミック版の『風の谷のナウシカ』は、どう考えてみても、漫画史において一章を丸々割いてでも語られなければならない。にもかかわらず、その位置づけにどうしても困り果ててしまうのだ。一応、縁戚としては宮崎駿自身も大いに影響を受けたと語る諸星大二郎がいる。あるいは宮崎駿とは相互に影響を受け合い、ついに娘にはナウシカと名付けてしまったメビウス(=ジャン・ジロー)がいるが、諸星大二郎はあきらかに手塚治虫の系譜からうまれているし(しかし、宮崎駿はどこから?)、日本の漫画が大いに影響を受けているのは宮崎駿ではなくメビウス(=ジャン・ジロー)のほうだ。比較的近年では、黒田硫黄を筆頭に、小田ひで次、五十嵐大介らの一派が宮崎駿の縁戚であるかのように語られているが、おそらく彼らは漫画というよりは映画から霊言を受けて漫画を描こうとしている。大友克洋が革命をもたらした記号からカメラのレンズへの変遷のような影響の受け方ではなく、映画ならではのカットの問題、このカットがいかに繋がって、いかに繋がらないかをコマの問題に援用しようとしているように見受けられる。小田ひで次の漫画では、唐突に拳銃を構えるコマがよく挿入されるが、この唐突さはまるで北野武の映画のようだ。 北野武は映画を4コマ漫画の連続のように捉えているというが、なるほどと思う。パン1、パン2、パン3、パン4、と、そのたびに何が動く。この変化そのものが重視されていて、まるで肉のない骨関節だけのヘビが連なっているかのようなザラザラした印象を受ける。たけしが血を浴びたりしても、次のカットではいつのまにか着替えていて、血がないなんてこともザラである。つまり、動き、変化の連なりが、ある種の質感をとどめておくことをしない。 それを思うに、宮崎駿はきわめて質感を重視しようとする作家なのではないか。漫画においても映画においても、物語を繋ぐための変化を描くのではなく、いつもそこにとどまっている質感を描こうとしている気がしてならない。たとえば、風や空気の質感がメーヴェの飛ぶことで描かれ、土や大地の質感がトリウマの駆けることで描かれる。とりわけ印象的なのが、森の人たちのからだを覆っているスーツの表面の質感だ。おそらく腐海の植物から作ったと思われるあのスーツの質感が物語の内容以上に脳裏にこびりついて離れないのだ。
シュナの旅
麦の伝説と生命の尊厳
シュナの旅 宮崎駿
あうしぃ@カワイイマンガ
あうしぃ@カワイイマンガ
国家の礎である、主食の「麦」をもたらした王家の冒険譚なのだが、その語り出しは奇妙だ。 「昔話のような、未来の話のような……」と語られる物語は、確かに読み進めていっても、いつの話だか判然としないのだ。 この物語世界には、主人公シュナの国にも彼の旅路にも、豊かな場所が出てこない。一番賑わっている奴隷市場も、建物が朽ちている。一方、崖の向こうの神人の国は、途絶えたはずの生物・不自然に豊かな農地・人造人間・空飛ぶ月と、極端なオーバーテクノロジーが見て取れる。 高度な文明を独占する神のような存在は、例えば『風の谷のナウシカ』でも描かれているが、そこではそれは、正義かどうかに関わらず、高慢な存在とナウシカに喝破されている。 『シュナの旅』の主人公シュナは、ナウシカほど強くはない。しかし彼は苦しい旅の末に、奴隷の身分から救った少女テアと共に、人間の生きる糧と尊厳を取り戻してゆく。 人間の生命力と勇気がテクノロジーを乗り越える希望と、それを支える愛……『シュナの旅』とは、非人道的なテクノロジーへの警告と生命への敬意を力強く表明する、「未来」への寓話なのである。 宮崎駿先生の優しい色調のカラー漫画として、文庫サイズで手軽に楽しめる一冊でもある。 (2021.8.22改稿:ちょっとネタバレがあったので、一部削除と変更を加えました)
風の谷のナウシカ
黄昏の世界の生命賛歌
風の谷のナウシカ 宮崎駿
あうしぃ@カワイイマンガ
あうしぃ@カワイイマンガ
あまりにも有名なアニメ映画の原作にあたる、宮崎駿先生の漫画作品。映画上映後も連載が続いたこの漫画は、主人公ナウシカが世界の秘密に到達するまでを、緻密に活き活きと描いています。 映画版と内容が違うので、ちょっと世界観を整理します。 ----- 栄華を極めた人類文明は千年前、「火の七日間」と呼ばれる破滅的戦争と、突如として現れた毒を吐く森「腐海」により、多くの人命と住む土地を失い、技術も途絶えました。 千年の内に三回の、腐海の爆発的拡大「大海嘯」と、その後の土地を巡る戦争で、人類文明は黄昏の時を迎えます。 大海嘯に沈んだ古の大国エフタルの残存部族は、北のトルメキア王国の実質的支配下に置かれました。風の谷や工房都市ペジテも、そんな部族の一つです。 南には宗教国家の土鬼(ドルク)があり、首都のシュワにある「墓所」には、火の七日間や腐海に連なるロストテクノロジーが眠ると目されてきました。トルメキアは墓所を入手しようと土鬼に侵攻。さらに、ペジテで発見された生物兵器「巨神兵」の奪取を目論み、第四皇女クシャナを派遣します。 風の谷の族長の娘・ナウシカは、ペジテとトルメキアの巨神兵を巡る諍いに巻き込まれ、そのまま土鬼へ侵攻するクシャナの軍に従軍します。土鬼による蟲を操る作戦を止めた時に、ナウシカは大いなる蟲・王蟲の友愛に触れ、彼らの「南の森を救う」という声を聞きます。 ナウシカの奮闘虚しく、繰り返される愚行。王蟲への友愛と人類への絶望から、森の一部になろうとするナウシカでしたが、王蟲と愛する人間に生かされます。 探求の行軍を続けるナウシカが辿り着く、世界の深淵とは……。 ----- ナウシカの行動力の源泉は「すべての命への愛情」。常に彼女は生命の生きる意志を尊重して、生命を愚弄する存在に抗います。 まるで再生医療や遺伝子工学の危険性への警鐘のように私達に響く、ナウシカの怒りと生命賛歌、そして世界の秘密を、震えながら共有したい。 (画像は2巻79ページより。映画版とは、この台詞を言っている人が違うのが、おわかりいただけるだろうか?)