100年の経

小説家がいなくなった未来で #1巻応援

100年の経 赤井千歳
兎来栄寿
兎来栄寿

AI関連の議論を見ない日はないというほど、世間にAIが浸透している時代がやってきました。地続きの現実を生きていると実感が薄いですが、今や小学生でもAIを使って作文やデータ解析ができる時代です。自分の子供のころを思うと、『ドラえもん』で夢見たような未来の一端が実現されていると言えるでしょう。 ただ、テクノロジーの進歩が輝かしく照らす道の端には、その陰で失われていくものもあります。多くの職業がAIによって代替され消えていくのは必然で、人類の歴史上でも繰り返されてきた出来事です。 この物語は、余命1年を宣告された売れない小説家・菅井櫓を描く物語です。コールドスリープをした100年後の未来では、彼の作品が21世紀のベスト10に選ばれており国中が彼の新作を心待ちにしているという状態でした。 生成AIを利用して小説を書く「呪言師(ソーサラー)」の台頭により小説家を含む物書きがいなくなってしまってしまった世界を舞台に、創作の意義や様態にまつわる問いかけがなされていきます。 また、この物語を牽引するのはヒロインの更科結衣の存在です。自分の作品を処女作からすべて読んで愛し、生きる糧にしてくれていた女の子。櫓は、他の誰のためでもなく彼女のために小説を紡ごうとします。コールドスリープして100年経った世界には普通に考えれば結衣がいるはずはないのですが、直筆の手紙が届いたことで存命の可能性があると解り、彼女にまつわる謎と彼女との関係性という部分も本作のポイントとなっています。 小説がテーマになっている作品らしく、「経」と書いて「たていと」と読ませるタイトルから、作中で櫓が発するさまざまな言の葉まで文学的な表現に溢れているのも特徴的です。 「一流の文学者なんてのはもっと残酷な人種であるはずだ。彼らは、青春期の若者たちに一生彼らの心臓を掴んで離さない鮮烈なトラウマを、いかにして植え付けようかと苦慮するような人種であるはずだ。文学の持つ毒を、持てる限りの文才で、いかにも12月の針葉樹のように美しく飾り立てて…」 「インクの木になった果実でお腹を満たしたい」 といった表現は好きです。私も、電子の海に漂って生きながらも槙島聖護のように紙の本を愛し続けていくことでしょう。 ミケランジェロの言葉や『ソクラテスの弁明』を引用して、創作における芸術家の役割は実は本質的には変わっていないのではないか、と考える節など芸術の根幹に触れる部分は特に興味深く、AIが隆盛を極めていく時代にあって今一度向き合っていきたいテーマに歴史を俯瞰しながら正面からぶつかっています。その上で、AIには成し得ない、AIを超える創作をしようとする姿が堪りません。 純粋な小説家との仕事をする機会が失われた編集者ニールセン・叶エが、ノウハウもまったくない状態で初めての作家とのやり取りに苦慮するのも面白いです。AIによって現代よりも圧倒的に大量の物語が作られるようになった時代であるなら、その良し悪しもまた人間ではなくAIが判断するようになっているはずです。編集者という仕事は名前は同じでも仕事内容は大きく変わっていそうで、他の編集者がどのようなことを行っているのか気になります。 自動運転車は当然実用化されているとして、SF好きとしては端々に登場するであろう未来ガジェットの数々にも興味津々です。 小説の、創作の、創作者の未来に肉迫しようとする意欲作。物語を愛するひとりの人間として、目が離せない作品です。

やがて、ひとつの音になれ

失った音と生きる意味を取り戻していく物語 #1巻応援

やがて、ひとつの音になれ 草原うみ
兎来栄寿
兎来栄寿

新鋭・草原うみさんの初商業連載作品です。 路草で公開されていた珠玉の短編をまとめた『mothers 草原うみ短編集』も6月に発売となるようで、併せて推したいです。 本作の主人公は、5歳からコンサートに出演し10代前半からプロとして活躍しながらも局所性ジストニアという脳の病が発症したことをきっかけにピアノを弾けなくなってしまった越智奏(かなで)。 かつての仲間たちが華々しい活躍をしているのを尻目に、印刷工場のバイトをして日々を凌ぎながら誰とも話さず下を向いて耳を塞いで過ごす日々。 そんな彼を変えるきっかけになったのは、隣の部屋に引っ越してきた33歳のライターの横野絵里と、その6歳のピアノに憧れを持つ息子の陽向多の親子。7年ぶりに向き合ったピアノの音色と人との触れ合いが、奏の失ったものの大きさと大切さを気付かせていきます。 音楽という軸がまずあり、その上で人生で最も大切なものを失くしてしまった青年の再起の物語という軸も並存しています。夢も未来もすべてを無くしてしまい、無気力になり周囲に呪詛を撒き散らすことしかできなくなってしまっていた奏の姿は痛々しいですが、理解もできます。 草原うみさんは、短編からも本作からも痛みや悲しみを掬い取り、そうしたものを描いた上で前に進む普遍的で大事な人間の営みを描くのに長けている方であるという印象を受けます。どうしようもなく人生に訪れる不条理や不遇、他者からの心ない扱いを受ける瞬間。そういったものもありながら、勇気を出して前へ進んでいく人間の気高さや尊さを描ける方です。 この物語のもうひとりのキーパーソンは、かつて奏の音に心酔していて、今は「ネオピアニスト」として動画配信サイト経由で大きな人気を博すようになった真琴。彼との再会によって物語は動きを見せ始め、互いの存在が互いに大きな影響を与えていきます。 個人的には、横野親子との日々の交流シーンが好きです。現代では希薄になりがちな隣近所との関係ですが、そうした赤の他人との繋がりが大きな支えになることもあるというのも良いなと思います。 単行本の表紙絵も非常に良く、回収されるであろうタイトルを表すシーンへと辿り着く瞬間がとても楽しみです。