「建築漫画をめざして──『アステリオス・ポリプ』にみるモダニズム建築のゆくえ」

サウザンコミックスレーベルで企画されている『アステリオス・ポリプ』日本語出版クラウドファンディングの連動企画として、発起人はせがわなおさんと矢倉喬士さんの連載記事をお届けします!

『アステリオス・ポリプ』日本語版出版クラウドファンディングページ


建築漫画としての『アステリオス・ポリプ』

 『アステリオス・ポリプ』は、1980年代から『デアデビル: ボーンアゲイン』や『バットマン: イヤーワン』のようなヒーロー・コミックスでキャリアを築き、1994年にはポール・オースターの小説『シティ・オブ・グラス』 (1985) のグラフィック・ノベル版を手がけたこともあるデイヴィッド・マッズケリ (1960~) が、約10年の年月を費やして完成させたグラフィック・ノベルである。妻と別れてから自堕落で無気力な生活を送っていた50才の元建築科教授アステリオス・ポリプは、ある日マンハッタンのアパートに雷が落ちて燃え上がり、わずかな所持金といくつかの思い出の品だけを手にアパートを飛び出す。そして、彼はそのままバスに乗って最果ての地を意味する街アポジーで暮らし始め、新しい土地で住み込みの自動車整備工として働くことになる。大学勤めのエリートだった彼は、これまで出会うことがなかった種類の人々と交友関係を築き、人生において目を背けたり軽視してきたものに触れるうちに、自分の半生を見つめ直して生まれ変わっていく。

 元建築科教授が主人公の作品だけに、『アステリオス・ポリプ』には様々な建築が登場する。そのような建築群は、アステリオスが出会う個性的なキャラクターたちと同様に個性的で、建築はキャラクターに負けない存在感を与えられている。アステリオスがそれまで出会うことがなかった人々と次々に出会う物語展開は、彼がそれまで出会うことがなかった建築群と次々に出会う旅路であるともいえるのだ。この記事では、『アステリオス・ポリプ』における建築の要素を取り出し、建築漫画としての同作の魅力を紹介する。

アステリオスが信奉するモダニズム建築観

 アステリオス・ポリプは、ハーヴァード大学を卒業後、オックスフォード大学に進学して建築学博士号を取得し、複数のコンペで受賞歴がある建築家である。しかし、彼は「ペーパー・アーキテクト」という異名をとっており、彼が提唱した建築理論や建築デザインは高く評価されるものの、そこから実際の建築物が造られたことはないという設定である。アステリオスが傾倒する建築理論は、作中で彼が1975年に25才の若さで出版した『人の顔をしたモダニズム (Modernism with a Human Face)』という著書に明らかなように、モダニズム建築に依拠したものである。ここでいうモダニズム建築とは、1920年代以降に石や煉瓦に代わって、鉄・ガラス・コンクリートが素材として使われるようになり、一般的には機能主義、合理主義、抽象性、幾何学、普遍性などの要素を特徴とする建築のことである (熊谷 76)(ここで「一般的には」という留保を加えたのは、イデオロギーや理論としてのモダニズム建築と、実践としてのモダニズム建築は異なるからである。そのような、機能主義や合理主義を超えたモダニズム建築の創造性を示す代表例として、熊谷良平はフランク・ロイド・ライトのジョンソンワックス本社ビルを挙げている。[熊谷 23])。モダニズム建築の装飾性を排した機能主義的性格は、均質的で非人間的な都市計画を推し進めたとして後に批判されるようになっていき (熊谷 23)1960年代から70年代には多様性、複雑性、曖昧さ、混迷のなかにあって秩序を見出そうとする態度を称揚するポストモダニズム建築の潮流が現れた (山崎 196)

 アステリオスの著書『人の顔をしたモダニズム』は作中で1975年に出されていることから、モダニズム建築が陥る可能性のある、均質的で非人間的な都市計画への批判を通過したうえで書かれたものと思われる。「人の顔をしたモダニズム」というタイトルは、おそらくは1968年にチェコスロヴァキアで起こった革命運動「プラハの春」にて、社会主義の民主化を目指すアレクサンドル・ドプチェクらによって提唱された「人の顔をした社会主義」の影響を受けたものだろう。ここから考えて、アステリオスの著作は、画一的で非人間的で非歴史的と批判されることもあったモダニズム建築理論を、民主主義的で複数的なものへと開く内容であったと考えられる。

 しかし、理論やイデオロギーとしてのモダニズム建築が実践としてのモダニズム建築とは異なるように、アステリオスの著作と彼の言動は全く異なっている。おそらくは1980年代初頭のコーネル大学と思しき大学で建築学の教鞭をとるアステリオスの授業風景を見る限り、モダニズム建築を民主主義的で複数的なものに開こうとする態度とは真逆だ。彼は建築の装飾性を排して機能性に重きを置き、学生が準備した図面を手酷くこき下ろし、民主主義的どころか独裁的な振る舞いを見せる。

 

 

 

この段階でのアステリオスは、モダニズム建築に多様な創造性を取り入れることを理論的に想像することはできたとしても、モダニズムが持つ合理主義と機能主義がもたらす美的秩序に過度に執着したままである。彼は、学生への指導において、内装と外装のどちらもだめだと指摘したり、受け持ちの学生を「図面を描けない学生」と「考える力がない学生」の二種類に分ける(つまり、優秀な学生が一人もいないという意味である)などして、学生たちが提出する建築案の全てを否定する。学生たちの図面は建築として現実の場所を占める可能性を否定されるわけだが、これはアステリオス自身の建築案が一度たりとも建設されたことがないことと対応している。実際のところ、アステリオスは学生たちの建築アイデアの実現可能性を奪うと同時に、自身の建築の実現可能性すらも潰しているのである。

 それでは、学生たちの図面を手酷く非難するアステリオスは、どのようなアイデアでコンペを勝ち抜き、評価されてきたのだろうか。彼は装飾性を排した機能性を重視し、建築の左右対称性に心の安寧を見出す。彼は2001年の9.11同時多発テロの標的となった双子の超高層ビル、「ワールド・トレード・センター」の建設案の早くからの支持者でもあった。アステリオス自身のアイデアも、1981年の「パラレル・パーク」という複合施設、1983年の「アキンボ・アームズ」という高層アパートに見られるように、装飾性の少ない左右対称な建築である。しかし、いくらコンペで勝利を重ねても、一度も建設されたことがない「ペーパー・アーキテクト」という彼の異名が示すように、先に述べた二つの建設案も実際に建設されることはなかった。

 

 

 

アステリオスのアパートの内装にみる建築観の変化

 アステリオスが頑迷なまでにモダニズム建築の理想を追求するさまは、彼のアパートの内装にも見てとれる。彼が住むマンハッタンのアパートは、モダニズム建築の巨匠たちがデザインしたインテリアで満たされ、さながらモダニズムの神殿のような様相を呈している

 

 

 

 

ミース・ファンデル・ローエの「バルセロナ・コーヒーテーブル」と「バルセロナ・チェア」、アイリーン・グレイの「アジャスタブル・テーブル」、マルセル・ブロイヤーの「ワシリー・ラウンジチェア」、チャールズ&レイ・イームズの「ラウンジチェア・ウッドレッグ」など、このページに登場する家具のほぼ全てがモダニズム建築の大家による作品である。自身の住居を自身が信奉するモダニズム建築家のインテリアで固める姿勢は、どこかドン・デリーロの小説『ホワイト・ノイズ』に登場するヒトラー研究者のジャック・グラッドニーを想起させ、研究対象の強大なアウラを己が身にまとい、護符として利用しているような印象を受ける。ここにおいてアステリオスは、モダニズムの聖人たちのインテリアに囲まれることによって、自身の列聖さえ夢想しているようにも思える。

 そうして、アステリオスが築いたモダニズム建築の神殿は、ハナとの出会いと結婚を通して変容していく。ハナが同居するようになると、彼女は日本製の箪笥や木製の左右非対称な三本足のテーブルや植物を持ち込み、アステリオスの部屋の風景を一変させる。その際、ハナが「ここには直線が多すぎる」と、アステリオスの部屋を批評する場面は重要である。

 

 

 

 ハナが批判したモダニズム建築における直線の要素について考えるために、1935年にマンハッタンを訪れてその摩天楼に魅了されたル・コルビュジエの思索を参照しよう。ル・コルビュジエは、碁盤目状にデザインされて直線と直角がつくるニューヨークの街並みについて、精神の自由、秩序、統御、プラス、正、加算、獲得、進歩などのポジティブな意味を読み込んでいる (ル・コルビュジエ 98-100)。また、彼はマンハッタンの高層建築群に、「絶えず進展するアメリカ、物質的手段を無限にもち、世界無比の力強い潜在力によって活気づくアメリカ」の姿を見て、アメリカは「例外的な完全さ」をもってそれを成し遂げていると書いている。ル・コルビュジエがマンハッタン建築を見て感じたイメージは、同じくマンハッタンのアパートにて直線と直角のモダンなインテリアが生み出す調和のとれた神殿的空間に暮らすアステリオスにも通じるように思われる。つまりアステリオスは、精神の自由、秩序、統御を重んじて、例外的な完全性をもって無際限に豊かな資源と共に永遠に進歩し続けるアメリカを夢想するキャラクターとして描かれているのだ。

 ル・コルビュジエが直線的で直角的なマンハッタン建築に投影した理想のアメリカ像を考慮する場合、ハナがアステリオスのアパートに非直線的な家具や植物を持ち込むことは、単に同居に伴って模様替えをする以上の意味を持つ。

 

 

 

ハナによるインテリアの変更は、直線や直角や左右対称の碁盤目にポジティブな意味を読み込むかつてのモダニズムの理想に疑念を投げかけ、無限の物質的手段と共に進歩し続けるアメリカという例外主義的理想にも再考を迫るのだ。

 上述のように、『アステリオス・ポリプ』では部屋のインテリアの変更は、アステリオスの建築観の変更につながると同時に、アメリカという国に個人が抱くイメージの変容にもつながっていく。ここで興味深いのは、それがセリフや地の文によって説明されることにも増して、絵によってなされているということだ。アステリオスの部屋を初めてハナが訪れるのが1985年で、その翌年に彼らは結婚し、1993年には離婚を経験するわけだが、その間の部屋の様子を視覚的イメージとして観察するだけで、あまりにも多くの情報が読者に伝わるようになっている。この意味で、『アステリオス・ポリプ』においては、ときに人物よりも部屋が主人公といった印象さえあり、登場人物が何らかの出来事を経験して変化していくさまを楽しむ文学の醍醐味を空間が代理しているようだ。『アステリオス・ポリプ』は、空間の成長や老いを楽しむことができる作品なのだ。

 人物ではなく空間が主人公。このような性質を持つグラフィック・ノベルの金字塔として、リチャード・マグワイアの『HERE ヒア』を挙げることができる。この作品は、ある一つの場所を紀元前30億年以上前から西暦2万年以降に至るまで定点観測し続けるという一風変わった設定で、遥か昔に恐竜たちがその場所を悠々と闊歩していた頃から、家が建設されて代々違う人間たちが部屋に変わり住んだ時代を経過し、果ては何らかの汚染によって生物が住めなくなった未来までを描き出す。この作品における人間たちは、あくまでもほんのひとときその場所を通り過ぎる脇役に過ぎず、他の動植物や物質に対して何の優位性も持っていない。『アステリオス・ポリプ』もまた、人間が動植物や物質に対して確たる優位性を持っていない作品として読める。アステリオスは新たに辿り着いた町で、遥か昔に恐竜たちを滅ぼしたという巨大隕石の飛来に思いを馳せ、さらには、人間を含むあらゆる生物がある日一瞬にしてその生を終えるかもしれないことや、生物の死を超えてそれでもなお続く世界を想像する。リチャード・マグワイアの『HERE ヒア』と共に、『アステリオス・ポリプ』は、空間が主人公であり、人々は他の動植物と等しく空間を通過していく脇役であるような不思議な感覚を与える作品としての可能性を持っている

 

有機的モダニズム建築への変容と、いまだなされざる歴史化

 ハナと生活するようになったアステリオスは、彼女からアドバイスを受けて建築観を変更していく。二人で森で散歩していた際にハナが松ぼっくりを拾いあげ、冷たく機械的なデザインばかりせずに自然から学んではどうかとアステリオスに提案する。ここでも彼女は、アステリオスのモダニズム的建築観に批評を加え、無機質で直線的だった彼の建築デザインに植物の有機性を取り込むように勧めている。

 ハナから有機的デザインの導入を提案されたアステリオスは、1991年に新著『デザインの種子』を刊行する。

 

 

 

この本によってアステリオスは、地域の固有の要素を活かしつつサステナブルな建築を志向し、フランク・ロイド・ライトやリチャード・ノイトラの「有機的モダニズム」を見事に再解釈してみせたと大きな評価を得る。この新著はアステリオスが1975年に出版した『人の顔をしたモダニズム』の延長線上にあり、ときに無機質で非人間的にもなりうると批判されるモダニズム建築に他の何かを包摂し、民主化し、多様化する方向性をさらに推し進めたものといえる。しかしながら、かつてのアステリオスがそうであったように、41才になったアステリオスはまたしても、民主化や多様化とは程遠い言動を繰り返す。この新著の着想はハナのアドバイスから得られたものであったにもかかわらず、アステリオスは全てが自分の功績であるかのように振る舞う。彼の作品を評価し、周りに集まってくる男性たちもまた、アステリオスの側にいるハナの存在を無視する。ここから『アステリオス・ポリプ』は、モダニズム建築が非歴史的になりうること、そしてそれはとりわけ、マイノリティの苦難から目を背けることにつながっているのではないかと問いかけることになる。アステリオスの最初の著作『人の顔をしたモダニズム』というタイトルに掛けていうならば、この時点での彼のモダニズム建築理論は、マイノリティの苦難の歴史などまるでなかったかのような顔をしているのだ。

 さて、ここまでに『アステリオス・ポリプ』という作品において、アステリオスがどのような建築観を持ち、それがハナとの生活を経てどのように変容していくかという展開の一部を紹介してきた。これはあくまで作品の一部であり、この後もアステリオスは強烈に個性的なキャラクターたちと出会い、その度に自身の建築観を変更していく。上で紹介してきた展開は、時系列でいえば作品の冒頭でアステリオスのアパートに雷が落ちるよりも前の話であり、その意味でいえば、まだ作品のスタートラインにも届かないところまでしか紹介していない。それでも、この作品における建築要素の魅力や奥深さの一端が伝わっていれば幸いである。建築を専門とする方々であれば、さらに面白く作品を読みこなすことができると思われるので、ぜひともご教示を賜りたく思う。

 名作との誉れ高いデイヴィッド・マッズケリのグラフィック・ノベル『アステリオス・ポリプ』だが、2009年の出版から13年もの間、邦訳出版に恵まれることはなかった。優れた作品の邦訳が出ない理由は多々あれども、この作品に関していえば、数々の意匠を施された色彩やデザインや製本を、作者が求めるクオリティで実現するための費用があまりにも高額であったからということに尽きる。この本がいかなるこだわりのもとに制作されているかについては、共訳者のはせがわなおさんの記事に詳しい (グラフィックノベルの傑作と名高い『アステリオス・ポリプ』翻訳のためのクラウドファンディングがはじまります | マンバ通信マンバ (manba.co.jp))。『アステリオス・ポリプ』の翻訳出版は、クラウドファンディングを通してしか達成できそうにない。以下のクラウドファンディングのページから、ぜひご支援をよろしくお願いいたします。

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参考文献
ドン・デリーロ『ホワイト・ノイズ』、森川展男訳、集英社、1993年。
フランク・ミラー、デビッド・マツケリー『デアデビル: ボーンアゲイン』、秋友克也訳、ヴィレッジブックス、2011年。
フランク・ミラー、デビッド・マツケリー他『バットマン: イヤーワン/イヤーツー』、秋友克也・石川祐人訳、ヴィレッジブックス、2009年。
ポール・オースター、デビッド・マッズケリ『シティ・オブ・グラス』、森田由美子訳、講談社、1995年。
リチャード・マグワイア『HERE ヒア』、大久保譲訳、国書刊行会、2016年。
ル・コルビュジエ『伽藍が白かったとき』、生田勉・樋口清訳、岩波書店、2007年。
山崎泰寛・本橋仁編、勝原基貴・熊谷良平・吉江俊『クリティカル・ワード 現代建築──社会を映し出す建築の100年史』、フィルムアート社、2022年。

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