(とりあえず)名無し
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2019/05/02
ネタバレ
SolidでCool
ピラっと本を開いただけで、「ああ、この漫画はスゴい。超カッコイイ」と思わせてくれる描き手が、ごくまれにこの世界に降ってくる。才能というのはとても残酷なものだなあ、と思う。 自分にとって、魚喃キリコはそういう存在です。 透明感がありながら、独特の手触りと血が匂うような痛みがあって、それでいて、読んでいるとザワザワと脳の快楽神経を刺激してくる。 魚喃キリコにしか描くことのできなかった、特別な世界です。 (あ、「魚喃」は「ナナナン」と読みます。念為。本当に独特だよなあ) 一コマ一コマに描かれた線と面が、まるで長沢節のデッサン画のように素晴らしい…と言えば、もちろんそれは褒めすぎなのですが、あの「香り」をチラッとでも感じさせる漫画ってだけで、とんでもないことだと思うんですよ。 日本の漫画家には「セツ・モードセミナーに通っていた人」という一群があって、バロン吉元御大を別格にすれば、魚喃キリコこそその最良の成果ではないか、と勝手に思っているのですが、彼女がセツに通っていたかどうかは不明なのです。絶対行っていたと思うんだけど、どうなんだろう…。
(とりあえず)名無し
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2019/04/29
スズキさんの休息と遍歴―またはかくも誇らかなるドーシーボーの騎行
ダディ・グースは、かつて幻の漫画家だった。 70年代初めに、週刊漫画アクション誌上で鮮烈な印象を与える作品を発表しながら消えた、伝説の存在であった。 だが、既に、ダディ・グースが後の小説家・矢作俊彦の若き日の姿であったことが明らかになっている。 矢作は、最近新作が38年ぶりに発表され大きな話題となった『気分はもう戦争』(大友克洋画)や、『サムライ・ノングラータ』(谷口ジロー画)、『鉄人』(落合尚之画)などの漫画原作を手がけてはいるが、基本的には、小説家として活動している。 大変申し訳ないが、このクチコミは「少年レボリューション」に対するものではない。 (興味があるかたは、高騰している中古などで手に入れてもらうしかないが、現在の漫画読者が読んで面白いものとは、ちょっと言えないと思います) タイトルに書いた『スズキさんの休息と遍歴―またはかくも誇らかなるドーシーボーの騎行』という、矢作俊彦の“小説”について、書きたいと思う。 なぜ漫画のクチコミで“小説”を取り上げるのか、と言えば、これこそが、元漫画家で後に小説家になった表現者が、その可能性を真に見せつけたものだと信じるからだ。 この小説には、元「気鋭の漫画家」だった矢作自らが、物語世界に有機的に存在する多量の「絵」を添えていて、その見事さも、この小説の魅力となっているのだ。 初めて読んだ時、「ああ、これこそが、漫画を描ける小説家の“新しい”小説だ!」と感嘆したのを覚えている。 「漫画」という表現が持つ力は、必ずしも漫画それ自体の中にだけ存在するわけではない。小説『スズキさん〜』は、「おそるべき子供」であった漫画家ダディ・グースの、「最新作」でもあったのである。 矢作のように、元は「あまり売れない漫画家」で、後に小説家になったものといえば、山田詠美(漫画家のペンネームは山田双葉)が思い浮かぶが、彼女は画力の点で漫画家として決して高いレベルではなかった。 著名な例では、小松左京が「もりみのる」などのペンネームで漫画を発表していたり、山上たつひこが漫画の筆を折って小説家・山上龍彦に転身したりなど、実は漫画家(ないしは漫画家志望)だった小説家というのは、結構いるのである。 極めて特殊な例で、イラストレーターとしてデビューし漫画的作品を発表している橋本治がいるが、漫画にとても詳しかった彼が「漫画家志望」であったかは寡聞にして知らない。(橋本の作画能力は素晴らしく高いが、超多才だった彼に漫画を描くことを期待するのは、少し酷だったろう) しかし、どの場合でも、「漫画」と「小説」の世界観やテーマに共通性があっても、その両方の能力を活かして作品を作り上げた例は、あまり見つからないと思う。 この矢作の『スズキさん〜』は、本当に貴重なトライであり、先鋭的な達成だったのだ。 『スズキさん〜』が三島賞の候補になった時、審査員の大江健三郎が、その「絵」を激烈に批判して落選させたと、最近、やはり同賞の審査員だった筒井康隆が矢作との対談で明かしていたが、それもその「新しさ」を証明する勲章である。 矢作俊彦=ダディ・グースという稀有でへそ曲がりな表現者が、再びそうしたトライをしてくれることを、ずっと願っているのです。
(とりあえず)名無し
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2019/04/26
ネタバレ
こんなにカッコイイ漫画は空前にして絶後
…と断言するのには、理由があるのです。 著者は以前インタビューで、「私は職業が別にあるので、漫画では最先端の表現をすることしか考えない」と語っていました。 なので、代表作である『赤色エレジー』は、「売れてしまった」から、ある意味「失敗作」だと。 すごいでしょ? 売れない(一般には理解できない)ような尖鋭的な表現しかする気がない、って言うんですから。 本業漫画家には絶対マネのできない場所に初めから立っている、そういう点でのカッコよさで、他が勝負できるワケがない。 初期作品から、ずっと林静一の漫画は、ただひたすらにカッコイイですが、今作は、現在の漫画読者にも一番わかりやすい形で、理解不能なレベルに先端的、ですよ。 近年よく言われる「サブカル」的な漫画なんて、比べ物になりません。 ぶっ飛んでます。 でも、ウルトラ「カッコイイ」です。 漫画は、こんなところまでイっちゃえるんだ、という極北、孤高の名篇です。 以下余談ですが。 若い頃、林静一は東映動画のアニメーターでした。(『赤色エレジー』の主人公は貧乏アニメーター) そこで、「漫画を描く同好会」を作ろうと呼びかけたんだけど一人しか入ってくれなかった。それが、同期入社の宮崎駿だった…と、これもインタビューで言ってました。 漫画版「ナウシカ」が描かれるきっかけは、林静一が作った…のかもしれないと、自分はずっと思っているのです。
(とりあえず)名無し
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2019/04/25
ネタバレ
ラストシーンは永遠です。
昔の漫画の名作って、ある意味、主人公の「死」がラストなんですよね。アトム、009、デビルマン、ワイルド7、ジョー、男組…他にもいっぱい(その後に続いちゃったのも多いけどw)。 シェークスピアの悲劇ですな。 この漫画のフィナーレは、そういう定型を打ち破り、小学生だった自分に「こんな終わり方があるんだ!」と感動をぶち込んだ超名シーン。 『熱風の虎』『赤いペガサス』と、モーターレース漫画の地平を切り拓いた著者が、ナスカーを舞台にした(…って、凄いな。こんなテーマ、今でも絶対無理だろう)、飛びっきりの「少年漫画」です。 続く『六三四の剣』でも、連載前に『修羅の剣』短期連載したり、村上もとかはオーソドックスに見えて、構成や演出に実に凝った技を使う、極めて先鋭的な才能だったのです。(当時のアメリカやフランスの映画の匂いがプンプンするしね) その後、漫画界では、今度は「主人公が最後に死なない」≓ハッピーエンドな作品が多くなって(80年代)、さらにそれ以降、「いつまで経っても終わらない」時代が長く続いてしまうのですが、そういう分析を始めると、この「クチコミ」には収まらなくなっちゃうので、それはともかくとして、いや、ラストシーンは大事ですよ、本当。 『ドロファイター』初読から40年以上経った今でも、思い出すと勇気が出るもの。 ちなみに、『がんばれ元気』は大好きだけど、あの最終回よりも今作のラストが、未来へ開いていて好きです。(小山ゆうなら『おれは直角』の最終回のほうが好み)
(とりあえず)名無し
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2019/04/19
日本漫画界が到達した、ひとつの極点
です。 今も昔も、この高み(深み)にいったものは誰もいない。 間違いないです、ハイ。 以上、終わり。 …っていうので、本当は言いたいことのすべてなのですが、まあ、それもどうかと思うので、もう少し贅言を重ねます。 大島弓子は、どこにでもある、でも「特別な痛み」を、途方もなく切実に、軽やかに描いて、そして常に、魂を照らし温める「救い」へと、読むものを導いていきます。 漫画界に限らない、同時代の文芸や映像など「物語り」表現すべてを見渡しても、大島弓子に比肩する「文学的」深淵を描き出すことが出来たものを、ちょっと思いつくことができない。 この『ロストハウス』が、彼女のキャリアで特に優れた一冊だとは思わないのですが、いかんせん現在流通している本は再編集されたものが多く、初読時の印象を適切に反映させられないので、とりあえず。 あと、個人的に『ロストハウス』は、七十年代からずっと読んでいた大島さんの新刊として、刊行された当時なに気なく読んで(たぶん九十年代中盤)、自分が心から愛好する後続の同時代漫画家さんたちの作品と比べて、それこそ「ケタが違う…」と、打ちのめされた記憶がある、忘れられない本なのです。 「たそがれは逢魔の時間」が収録された花ゆめコミックス版『綿の国星2』が私的には最高なのですが、まあ、大島弓子はどれもメチャクチャ凄いので、どれでも良いんです。 『バナナブレッドのプディング』でも『四月怪談』でも『秋日子かく語りき』でも『毎日が夏休み』でも、とにかく1975年~1995年に描かれたすべての「物語り」が、唯一無二にとんでもなく素晴らしいので、未読のかたは、ぜひ。 (「サバ」や「グーグー」とかは、やっぱちょっと別枠で)