メイプル戦記
漫画史に煌々と輝く魔球、その名もハクション大魔球!!
メイプル戦記 川原泉
影絵が趣味
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マンガとはひとつに夢をみさせてくれるものでしょう。そして魔球とは正しくすべての野球ファンにとっての夢……。そんな夢をみさせてくれるマンガとは、あるいは魔球とともに歩んできた歴史なのかもしれません。 そもそも事の始まりはこうなのです。プロ野球界に女性だけで構成された新球団ができる、その名も「スイート・メイプルス」。もうこの時点で夢のような話なのです。こういって差し支えなければ、メイプルスの面々は、男だらけの球団を相手にまったく出鱈目と積極的に言っていきたいほどの懸命さと天真爛漫さで勝ち上がっていきます。この途方もない出鱈目さ加減がほんとうに感動的で胸を打つ。男たちを相手に女性だけのチームがどうやって勝っていくのか、なんていう、説明責任はこのマンガには端から存在していないのです。 マンガに関わらず、いま、あらゆるものに説明責任なるものが蔓延しているように思われます。しかし、それはなんと窮屈で不自由なことだろうとも思うのです。説明責任とは、アレはしていけない、コレはしてはいけない、というふうな否定的で不自由に方向にしか物語を運んでいかないことでしょう。そんな説明責任なるものから始めから自由になっている『メイプル戦記』は、それ故に感動的としか言いようがないのです。私たちはまだ見たことのない魔球を見てみたくてマンガに熱中するのではなかったか、私たちはまだ見たことのない夢を目の当たりにしたくてマンガに熱中するのではなかったか。私は『メイプル戦記』ほど自由で豊かで感動的なマンガを他にあまり知りません。
らんま1/2 〔新装版〕
人魚の変奏
らんま1/2 〔新装版〕 高橋留美子
影絵が趣味
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今でこそ、もう珍しくはないのかもしれないが、高橋留美子といえば女性の漫画家としてイチ早く少年漫画の分野を開拓したひとでしょう。そんな性別の垣根を越えて活躍した漫画家が『らんま1/2』という水と湯をかぶるだけで男性女性の垣根をいとも簡単に越えてしまうマンガを描いている事実はたいへん興味深いことだと思います。 1/2という言葉のとおり、主人公の早乙女乱馬は男性とも女性ともつかない実に中途半端な存在として私たち読者の前に姿をあらわします。そして、まさしく、この中途半端な有様こそが高橋留美子という漫画家の特異な作家性だと思うのです。 あるいは地球を侵略しにやって来たはずなのに、そのまま居着いてしまった宇宙人は中途半端な存在ではなかったか(うる星やつら)。あるいはうら若い未亡人のアパート管理人と、大学浪人から就職浪人までしてしまうアパートの住人は、どちらとも中途半端な存在ではなかったか(めぞん一刻)。あるいは妖怪と人間とのあいだに生まれた半妖の少年は中途半端な存在ではなかったか(犬夜叉)。あるいはあの世でもこの世でもない境界に連れて行かれた過去をもつ少女と、人間と死神との混血の少年はどちらとも中途半端な存在ではなかったか(境界のRINNE)。 高橋留美子のマンガには、このようにして、どちらともつかない中途半端な存在がまず必ずといっていいほど見られるのです。それはあたかも女性漫画家の身でありながら少年漫画の分野に進出した作者自身のように。そして手塚治虫の『火の鳥』のように高橋留美子のライフワークであるように思われる『人魚シリーズ』、人魚とはまさしく中途半端な存在の代表格でしょう。古来よりどちらともつかない中途半端な存在としてよく知られる人魚は、高橋留美子の特異性にもっとも相応しいアイコンだったのではないでしょうか。
アシュラ
ほんとうの優しさとは何か。
アシュラ ジョージ秋山
影絵が趣味
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壮麗なものには隠然として、邪悪なもの、怪異なもの、頽廃したものが秘められ、夜光のような輝きを放っている。いまもし、壮麗なものを世上の謂うところに従って、崇高なもの、美麗なもの、厳然としたものであるとしてみよう。たんなる空しい語彙の置き換えに終わって、壮麗なものを壮麗なものたらしめる、夜光のような輝きを放つことはできないであろう。それでは、壮麗なものとは崇高なもの、美麗なもの、厳然としたものではないというのか。邪悪なもの、怪異なもの、頽廃したものであるというのか。 森敦『意味の変容』より ショージ秋山の『アシュラ』が人肉食などの過激な描写により世間からの非難が殺到して有害図書指定を受けてから、もうずいぶんとながい月日が経った。有害図書とはじつにセンセーショナルな言葉である。事実、ジョージ秋山は有害図書指定を受けて一躍時の人となったようである。けっして『アシュラ』という作品そのものが話題にされたのではなく、導入の人肉食の挿話と有害図書ということばかりが人目に浮上して晒されてざわついたようである。まさにセンセーショナルな言葉が問題を生じさせ、そうして生じさせられた問題がまたセンセーショナルを呼ぶ、むなしい言葉の空転である。そもそも問題など初めからどこにもなかったのである、誰も『アシュラ』など読んではいなかったのだから。読んだという人が仮にいれば、その人は、そおっと、その本を慈しむように閉じるだけである。 ほんとうの優しさとは、いったい何であろうか。たとえば、困っている人がいたら助けてあげることだろうか。それとも、子供の心の成長に害を与えそうな本を予め取り除くことだろうか。私はそのどちらともをひとしくほんとうの優しさだとは思わない、それらがまったくもって善行のひとつに数え挙げられ得ないとは言わないが、私はそれらをひとしく一時的な対処であると思う。あるいは、困っている人が目の前にいて、助けてあげたい気持ちはあるのだが、自分にはそんな余裕のない場合はどうなるのか、それはけっして優しさではないと言うのか。もしくは、けっきょくは共倒れになるのを承知で人助けにでる場合はどうなるのか、それはほんとうに優しさであると言えるのか。そもそも、私たちにとって困っている人とはいったい何なのか、子供にとって害になるものとはいったい何なのか、なにか仮にも定められた平均値のようなものがあり、そこから陥没しているものを平均値にならしてあげることはほんとうの優しさなのだろうか。 こうまでして、まわりくどく優しさというものについて言及してみるのは、私は他でもない、この有害図書に指定された『アシュラ』からたいへんな優しさを感じたからです。この有害と言われた『アシュラ』から滲みでる優しさとはいったい何なのだろうと思うのです。もしかすると私の頭が狂っているのかもしれません。 アシュラはまさに世上の謂うところの崇高なもの美麗なものからはかけはなれた怪異なもの頽廃したものとしてまず私たちの前に姿を現します。それは仮に平均値というものを設定すれば陥没した存在としてあることになるでしょう。それからアシュラは人をも殺める壮絶な人生を経て、さいごには法師に導かれて仏門に入り、「命」という名前をはじめて授かることになる予定だったのですが、その結末は連載の中止により叶わないものとなりました。しかし、アシュラが導かれることになる仏門とは、宗教とは、私たち人間にとってひとつ崇高なものであるでしょう。つまり、アシュラは怪異なもの頽廃したものを経て、奇遇ながら、その反対概念であるところの崇高なものに辿り着く。しかし、それでは、壮麗なものとはいったい何なのか。怪異なものも、頽廃したものも、崇高なものも、美麗なものも、どれもひとしく壮麗なものとは似ても似つかないのです。私には壮麗とは「命」そのものであると思います。あるいは怪異であったり、あるいは頽廃していたり、あるいは崇高であったり、あるいは美麗であったり、あるいは怪異から崇高に転じたりする人生の奇遇さそのもの、もっといえば、地球の奇遇さそのもの、この宇宙の奇遇さそのものであると思うのです。怪異なもの、頽廃したもの、崇高なもの、美麗なもの、こういった言葉は壮麗な「命」そのものを測るために仮に定められた単位でしかないと思うのです。そして、アシュラは「命」と名付けれらたとき、怪異なもの、頽廃したもの、崇高なもの、美麗なもの、こういった言葉から解き放たれて自由になり、言葉や概念や単位のベールを介してではない壮麗な「命」そのものとしてはじめて見られるようになったのではないかと思うのです。 『アシュラ』から滲みでる優しさとは、この壮麗な「命」そのものを言葉や概念や単位のベールを介してではなく、じかに直接直視しようとする試みにあるのではないかというような気がしています。それは平均値も陥没点もありえない、底の最底から、すべて有象無象の「命」そのものがいっせいに自然に盛り上がり膨張して炸裂していくかのような凄まじいまでの肯定の姿勢であると思います。そこにはあるいは自然があらゆる「命」に強いる死すらも含まれる凄まじいまでの肯定の姿勢。私はこの肯定の姿勢をほんとうの優しさと言いたい。あるいはその肯定の姿勢とは、ありとあらゆるものは、何かの枠組み(言葉や概念や単位といったもの)に括られることなどあり得ず、すべてがそれぞれにちがっているということだけにおいてはひとしく肯定されうるということでもあるかもしれません。 ところで、とうとうアシュラには与えられなかった「命」という名前をジョージ秋山は自身の息子に与えることになります。そのことについては、『アシュラ』とは違った観点でまた素晴らしいマンガといいたい漫画家二世をインタビューする田中圭一の『ペンと箸』 http://r.gnavi.co.jp/g-interview/entry/1742 によく描かれています。寡黙で厳しい印象であった父親ジョージ秋山に、大人になった息子さんはある日いうのです。 「オレの名前の由来、命を大切に、じゃないよね」 「じゃないよ」 「命がけで生きろ、だよね」 「ああ、そうだ」 私はここを読んだとき、もう、涙が止まらなくなって大変なことになりました。その後、息子の命さんは『アシュラ』をアニメ映画化することになります。そのキャッチコピーが「眼を、そむけるな」であったことにも涙したことを付け添えておきます。ほんとうの優しさとは、まさに、何事からも眼をそむけないよう試みることであると思うのです。
オールド・ボーイ
無記名的な、無国籍的な、大陸横断的な
オールド・ボーイ 嶺岸信明 土屋ガロン
影絵が趣味
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狩撫麻礼の名義でもっとも世に知られる土屋ガロンが原作をつとめているのが『オールド・ボーイ』。韓国の名監督パク・チャヌクにより映画化され、カンヌ国際映画祭では審査員特別グランプリ、さらには映画大国アメリカはハリウッドでもリメイクされ、その際、それら会社間での権利関係で色々と揉め事が発生したようである。 そんな作品のほうが勝手にひとり歩きしている状況は原作者冥利には違いないが、この原作者、狩撫麻礼という名義でもっとも知られている男はじつに変な男である。まず、狩撫麻礼という名はカリブ=マーレー、つまりレゲエ音楽家のボブ・マーリーと彼の生活の拠点であったカリブ海とを掛け合わせたものらしいが、土地や名前などの固定的なイメージをペンネームに使用していながら、当の本人、狩撫麻礼という名義でもっとも知られているこの男は、土地や名前などの固定化したイメージから浮遊して逃げさるかのように極めて無記名的な存在である。いくつものペンネームを使い分けるさまは言うまでもなく、そもそもマンガ原作者であるために絵柄は作画担当に委ねられ、ひとつのイメージに定まることはない。さらにはいっさいメディアに顔を現さないために誰も彼の姿形を知らず、狩撫麻礼は彼のマンガに出てくる登場人物たちのように部屋には冷蔵庫とサンドバッグだけがポツンと置いてある、冷蔵庫の中身はすべてビールで埋め尽くされている、なんていうような妙に信憑性のある伝説だけが勝手にひとり歩きしているのである。そう、作品だけではなく、彼の存在自体も"物語"となり勝手にひとり歩きしているのである。 そもそも物語とは何か。物語とは話し語ることであり、物語の起源とは伝承にほかならない。当然のことだが、物語の伝承には著作権などなければ固有性も何らそなわっておらず、しかし当の物語のほうは極めて匿名的に、希薄にも、希薄であるが故に霧や空気のように所かまわず浸透して、あらゆる隙間を縫って各方面へひろく拡大伝播していく性質をもっている。著作者という概念など人類のながい歴史において近代になってようやく発生したものにすぎない。では、物語の本質とは何か。著作者という概念が発生した近代以降は、それは著作者その本人に帰依するものと一般には言われているようだが、人類のながい歴史からみた物語の場合はそうはいかない。その物語の発話者を遡って探していこうにも、その先には深淵があるばかりである。あるいは都市伝説によくあるように、その物語伝承の起源を仔細に追っていった結果がじつに身も蓋もないことであることも往々にしてあるだろう。すなわち物語の本質とは、その発生の起源ではない。物語の本質とは、むしろ、著作者を置き去りにして、極めて匿名的に、希薄にも、希薄であるが故に霧や空気のように所かまわず浸透して、あらゆる隙間を縫って各方面へひろく拡大伝播していく性質のほうにあるのではないか。それはまさしく物語が勝手にひとり歩きするということである。 そして、まさしく『オールド・ボーイ』はそんな物語の本質を貫くかのように、狩撫麻礼の名を置き去りにして、マンガというジャンルを越えて日本から韓国へ漂流し、ヨーロッパへ渡り、とうとうアメリカ大陸にまで辿り着く。しかも、ひとつひとつ国を跨ぐごとに、その物語の中身は少しずつ改変されているのである。狩撫麻礼とは物語の本質を身に纏い、世界各地をさながら無記名の幽霊のように彷徨い歩く男の仮の名前ではないか。そして、そんな男が、わけもわからずに何十年も監禁されて、そのわけを探すために街を彷徨い歩く、さながら記憶喪失のような男の後ろ姿と妙にかぶさるのである。 ところで、幽霊で思い出したのがロシア文学の代表格ゴーゴリが書いた『外套』という小説である。極寒の地、ロシアで、アカーキイ・アカーキエウィッチというひとりの男が新調したての外套を追い剥ぎに奪われて死んでしまうという小説だが、アカーキイの死後、各地でアカーキイの幽霊が現れて外套を奪っていくという噂が流れはじめる。じっさいに幽霊をみたというひとが遠い街から現れたが、その幽霊の風貌はアカーキイの姿形とはまったく違っていたという。 カリブ=マーレ―から拝借したという狩撫麻礼の名をみるたびに、私にはそれがカリブ海の南国のイメージとはどうしても繋がってこない。むしろ、なぜだか、狩撫麻礼ときくと大陸を横断してはしる極寒のシベリア鉄道を思い浮かべるのである。
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