作者は既婚の先生に恋をしていてその事でとても悩んでいたと遺族が言っていたそうです。
生徒と既婚の先生という関係を醜い侍女と美しい王子という関係に置き換えていて描いたんじゃないかと私はおもいます。
エリノアを幸せだったんじゃないかと言ったのは、作者は好きな人の為に役に立つことすら許されないから、好きな人の役に立つことができたエリノアが自分よりも幸せに見えたんじゃないかと思いました。
あと王子はその後美人な人と結婚してとても幸せにと暮らした描いてありましたが、それは作者が自分の恋が報われなくても好きな人に幸せになって欲しいと願っていたからじゃないかと思います。作者本当に純粋で優しい心の持ち主だったんだと思います。
内田樹氏のブログより
je pense, donc ça se pense 2009-02-26 jeudi
http://blog.tatsuru.com/2009/02/26_1232.html
>そうやって剣やら杖やら体術の相手やら自分の身体各部やら、すべてのもののはたらきを妨げないように気を遣っていると、「そもそも、この『気を遣っている』主体というのはどこにいるのか?」という深甚な疑問に逢着することになる。
主体って何?
武道はこのデカルト的省察をデカルトとは逆方向に進む。
「我思う」ゆえに「『我』在り」ではなく、「我思う」ゆえに「『思う』あり」の方に分岐しちゃうのである。
術技的には、主体なんてなくてもぜんぜん困らないし、むしろない方がましだからである。
この逆説的状況に学生諸君を投じるために、お稽古しているのである。
武道家であり哲学者である内田先生の言説を拝すうちに、悟りとはなにかと考えることになりました。
多分、時間と空間は編集可能である、自分も(他者さえも?)という境地なのかと。
なんでもそうですが、悟りとは果てのない営為で、世界(時間と空間)は変えられるんだって思い出して、いろいろ試すうちに、自分というものを変えるのが一番効果がでかいことに気づく。そこから悟りが始まるんだと思います。
そしてその人たちは、自分自身をまるで遊び道具や掃除道具のように試していく。
夏目房之介という名に出会ったときのことを思い出します。確か、石川九楊著「書とはどういう芸術か―筆蝕の美学」の一文でした。
手元に本がないので、曖昧な引用になって申し訳がないのですが、
>夏目房之介「手塚治虫はどこにいる」は立派な漫画論であり、書論である。
漫画は書の一部といっていい。それが気にくわないなら書は漫画の一部であるとしてもいい。
こんな文章があったかと思います。後者を読んで石川九楊は本物だと直観しました。
Youtubeに京都国際漫画ミュージアム「藤田和日郎トークショー」という動画が上がっています。
https://www.youtube.com/watch?v=j-v2b04tRt8
その1:06:21(タイムバー)で藤田先生がこのようなことをおっしゃっています。
「俺ね。その人になりたいと思ったらその人は越えられないとか、いろいろ耳当たりのいい格好いい言葉あるじゃないですか。だって、越えるつもりないですしね。高橋葉介先生みたいになりたいですもん。
だけど、なれてないから一生懸命頑張っているわけで。
あの、それよりも越えられないよってのは、でっけえお世話ですよね。
大好きなんだもん。もう、本当に好きで好きで、狂うくらいその人の漫画が好きで。
それが描けないのだって当たり前だし、そういうことわかってるから、越えられないよとかいう奴ってでっかいお世話だと思うんですよね」(高橋葉介先生紹介の流れは54:22頃)
これを聞いてやっぱり、藤田先生は本物の創作者だと思いました。
私には、藤田先生の言葉は西洋的オリジナリティ信仰批判に捉えられました。
「自分なんかどうだっていい」それがこのコメントのリズムです。
今のゴラクは漫画勝負、表紙の女性で読者を釣るスタイルをやらないからな。ジャンプ漫画家が流入してからゴラクが変わったな。