ファイティング寿限無

落語のタメにボクシングをやるぞ!応援出来ますか?

ファイティング寿限無 立川談四楼 野部優美
名無し

スポーツ界のヒーローなんて才能がある人間が努力した上で 仲間や運に恵まれなければなれるモンじゃない。 そして努力が出来たり仲間が応援してくれたりするのは 本人が、真面目に本気で取り組んでいればこそ。 そうでなければ頑張れないし廻りも応援しない。 そもそも、どんなに才能があっても好きでなければ 努力できないだろうし、 好きでもないのに出来る程度の努力しかしない主人公は 現実でも漫画でも、共感を得るのは難しい、そう思う。 だからだと思うが、スポーツ漫画の主人公は そのスポーツが大好き、というのが定番。 それか、好きじゃなかったけれど、 やってみて好きになった、とか。 「ファイティング寿限無」も、 やってみて好きになったパターンではある。 だが、そうなるまでも、そうなってからも、が ハンパじゃない。 修行中の落語家「橘屋・小龍」こと小林は 師匠が好きで師匠命で師匠の命令は絶対。 だが師匠は落語の実力者でありながら、 実力至上主義ではない。 芸人は売れなきゃ惨めなものなんだ、というリアリスト。 「手段はナンでもいいから売れろ。付加価値を付けろ。」 その教えに従い、小林が選んだ手段が 「落語も出来るプロボクサー」 落語が師匠が命な小林だけに、 ボクシング命でない自分がボクサーを目指すことに 引け目を感じつつトレーニングに励む。 だがプロボクシングの世界は、 好き嫌いだ本気だ遊びだ、とかの 全てを飲み込んで濾過した上で強者だけが生き残るという 別の意味で純粋で単純な世界だった。 さらに思いがけず、落語とボクシングが融合することで 小林の才能が開花し、ボクシングに本気になり、 周囲も小林を知り応援してくれるようになっていく。 やりたくないならやるな、好きじゃないならやるな、を 逆説的に問うてくる、そんな漫画。 しかもそれだけじゃない笑いながら泣けてしまう漫画。

ドカベン

だから野球マンガは面白い!

ドカベン 水島新司
影絵が趣味
影絵が趣味

当初は柔道マンガとして始まり、いくつものシリーズを経由しながら、ひじょうに長い年月を経て、とうとう『ドカベン』に終止符が打たれた。最終巻の最終話では、第一巻の第一話における山田と岩鬼の出会いをそのまま回想としてなぞり、このあまりにシンプルでありながら、これしかないという演出には言うにいわれぬ感慨を憶えたものだった。 『大甲子園』を含めたドカベンシリーズの本流だけで全205巻。それ以外の支流からドカベンシリーズの本流に合流してきたものを合わせれば300巻に迫る勢いである。じつは、こち亀の200巻の記録をゆうに超えてしまっているのだ。 この途方もない事態は、おそらく『ドカベン』にのみ関わるものではない。すべての野球マンガに、野球マンガというジャンルに関わるものであると思う。マンガには様々なジャンルがあるが、そのなかでも野球マンガというジャンルは、マンガという体系に対して、ある特権的な位置を占めていると思うのだ。これはハリウッドが西部劇というジャンルとともに映画産業を発展させてきたのとよく似ているような気がする。すなわち、ここでは映画が西部劇を撮るのではなく、西部劇という土壌が映画を撮らせているというある種の逆転現象が起きている。映画においてもっとも重要な光線の処理の問題、これをハリウッドはその近郊の年中天候の変わりにくい荒涼地帯で西部劇を撮ることで解決してきたのだ。天候がほいほい変わればそのたびに撮影を中断せねばならないが、西部劇ならばそんな心配はしないでどんどん撮影をすすめ、作品を量産することができる。つまり、こうした西部劇の量産で興行した潤沢な資金を次の撮影にまた注ぎ込むというサイクルがハリウッドにはできていたということだ。 では、マンガはどうかといえば、マンガ制作に天候はあまり関係がなさそうだが、やはり手塚治虫の登場いらい体系の整えられてきたコマと記号の処理という問題が"大友以降"のマンガにおいても頭をもたげてやまないはずなのだ。というより、マンガにおける諸問題はコマをいかに処理し、記号をいかに処理するかに集約されるはずだ。あれだけマンガというものに抗ってみせた『スラムダンク』の井上雄彦もけっきょくはコマからは逃れられないし、記号には頼らざるを得ないところがあった。そもそも井上がマンガに抗わざるを得なかったのはマンガ家という身分でありながらバスケが好きだったという不幸に由来する。マンガでバスケの動きをどう表現するか、それは文字通りマンガへの過酷な抵抗であったことだろう。『スラムダンク』の美しさは、このマンガへの過酷な抵抗と山王への果敢な挑戦がダブるところに集約されるだろう。ただ、あくまでも井上に許されていたのはマンガへの飽くなき抵抗という姿勢までで勝利ではなかった、だからこそ湘北が山王に奇跡のような勝利をおさめたときに連載を止めねばならなかったのだ。その点で、マンガは野球に愛されていると言わざるを得ない。愛に守られてスクスクと育ち、野球マンガに特有の素晴らしき楽天性でもって『スラムダンク』とはまたちがった豊かさを随所で花開かせている。そのことは近年ますます豊饒となった野球マンガのひとつ『おおきく振りかぶって』にもよく描かれている。すなわち、打者のほとんどが打ち上げてしまう三橋くんのまっすぐ、打者はボールの運動をじっさいに目で正確に追っているのではなく、その軌道を経験的な記号として捉えてバットを振っている、と。このことは野球を外からみる側にもいえる。投手が構えて、ボールが投げられる、打者が構えて、バットが振られる、この一連の運動を隈なく目で追っているひとなどいないはずなのだ。わたしたちが見ているのは、投手が構えて、次の瞬間には、構えていた打者がスイングし終えていて、マウンドの投手はまるでバレエでも踊るみたいな不可思議な格好になっている。この野球をみるときの呼吸はマンガの呼吸とぴったり合いはしないだろうか。コマからコマのあいだの欠落を敢えて埋めようとはしなくてもマンガは野球を経済的に語る術をはじめから心得ていた。つまり野球マンガは、あるいはバスケマンガのように、マンガそのものに抵抗する必要があらかじめなかった。この追い風を受けてマンガは野球という物語を幾重にも変奏して量産することができたのではないかと思うのだ。

Y氏の隣人

いままでの人生に影響あったかもしれない

Y氏の隣人 吉田ひろゆき
ひさぴよ
ひさぴよ

中学生の頃に出会って、今でもたまに読み返す漫画。この漫画に登場する無数の人生が、20年以上経っても自分の中で物事を判断するときの支えの一つになっているかもしれない。読み終わってふと我に返ると現実の自分を見つめることができるので、メンタル弱くなったら読む、御守りみたいな作品。 作品を少し紹介すると、1988年から2002年までヤングジャンプで連載していた現代のお伽噺風のヒューマン・ドラマです。 悩める人間たちのもとに、胡散臭い神様や天使・悪魔といった存在が現れ、謎の秘密道具を与えては、人間たちの運命を大きく変えていく・・・という1話完結型の短編漫画で、「笑ゥせぇるすまん」に近いテイストです。喪黒福造みたいな際立った不気味さはありませんが、Y氏の隣人には、ザビエールをはじめとしたバリエーション豊かな妖しげなキャラクターが揃ってます。 作者・吉田ひろゆき氏は、元銀行員という異色の経歴を持っており、これがデビュー作になります。作品には、銀行員時代に見てきたと思われる人間模様が至るところに登場します。(余談ですが矢口高雄も元銀行員) 悩みやトラブルの原因で一番多いのが金銭関係だったり、 神様が渡すアイテムにしても、無限に使えるわけではなく、使用する度に「貯金」や「利息」といった制限が必ず付いてまわります。 そして人間の善行・悪行を「積み立て」として捉えて、その勘定が合わなくなったときに破滅が訪れる。 まさに因果応報!という感じで大好きな世界観なのですが、 この作品の凄いところは、「自分は、善人になるぞ!」と意気込んで善行を積んだとしても、必ずしも思っていた通りの結果にはならない、というところ。 この不条理さと、因果のバランス関係がほどよくて、人生ってヤツは一筋縄ではいかない…と読む度に思わせてくれます。ハッピーエンドになるのか、バッドエンドになるのか、一話一話のオチを予想しながら読むのも一興。 1巻から読み通すのは時間がかかるので、まずは「Y氏の隣人~傑作100選~」から読んでみては。

新装版 真・女神転生 デビルチルドレン

コミックボンボンの伝説的ハードボイルドアクションマンガ

新装版 真・女神転生 デビルチルドレン ATLUS 藤異秀明
ANAGUMA
ANAGUMA

「ボンボンのベルセルク」とはよく言ったもので、およそ児童マンガとは思えぬハードな表現と展開で当時の小学生をビビらせつつも興奮させまくった本作。 原作は女神転生シリーズを子ども向けにリメイクした同名のゲームボーイソフトですが、原作プレイヤーが「なにかの手違いかな?」と思うほどのハードボイルドが盛られていることで有名です。 なんなら本家女神転生よりタフかもしれない。 主人公の甲斐刹那は小学5年生にしてデビルの使役者「デビルチルドレン」に選ばれ、魔界の騒乱に巻き込まれますが、巻き込まれ方からすごい。 自室が吹き飛び悪魔の召喚銃デビライザーを謎の配達屋から押し付けられたかと思うと、その配達屋が目の前で速攻息絶えます。いきなりハード過ぎる。小5ですよ? 基本このマンガでの「死」は身体が消えるとかファンタジーなやつじゃなく超フィジカルに訪れるので、現実的な死の感覚が子ども心に強烈に刻まれたわけです。(実際最初は怖くて読めなかった) 連載はじめの頃はキャラクターの頭身も子ども向けっぽいデフォルメが効いた感じなのですが、ふとした瞬間から筋肉が盛りに盛られたゴージャスな作画に吹っ切れていきます。 絵柄の変化と同時進行で周囲のキャラが次々に壮絶な最後を遂げ、主人公(※小5)の目がどんどん据わっていくのはマジの迫力。マーブルランド編に突入して刹那が再登場したときのゾクゾク感はそうそう味わえるものではないです。 『ベルセルク』と喩えられる最大の理由はおそらく同戦争編だと思いますが、こちらも出色の出来で、ラセツ族の兵士が自分のちぎれた腕を抱えて狂気の笑いを浮かべていたのをよく覚えています。大人になった今だからこそ「あ、それ描いちゃうんだ?」っていう凄まじさが分かりますね。 手加減無しで徹頭徹尾リアルに描写されたキャラクターの生と死、痛み、苦しみがあるからこそ、物語とキャラクターの生きざまに説得力があって、今でも十分楽しめるのはそういう理由なんだと思います。 子ども向けなのに云々を超えた重厚なドラマ、是非味わってほしいです。

まどかのひみつ

キラキラしてて温かい「自分らしさ」の物語!

まどかのひみつ 金魚鉢でめ
天沢聖司
天沢聖司

何がきっかけでこの本を見つけたのか忘れてしまいましたが、購入の決め手はこの美しい表紙でした。もう、見てくださいよこれを…!! https://res.cloudinary.com/hstqcxa7w/image/fetch/c_fit,dpr_2.0,f_auto,fl_lossy,h_365,q_80,w_255/https://manba-storage-production.s3-ap-northeast-1.amazonaws.com/uploads/book/regular_thumbnail/260588/f9a8b0a9-b873-46a5-bc4a-1d71a4a923e5.jpg この**ファッション雑誌のポートレートのような繊細の色使いの表紙**が最高で、「うわ〜!こういう写真がプリントされたTシャツほしい…」とうっとり眺めていると、登場人物たちが着てることに気づいてクスッときました。 そして表紙だけでなく中身も最高でした…! かわいいものが大好きなまどかがいつきと出会い、自分らしい格好をすることに自信を持っていくストーリーなのですが、主人公といつきの家族が本当に温かくて素敵で、**憧れ・友情・家族愛全部詰まってるんです…!** 憧れは、服装に対する憧れという面だけでなく、第1話で、まどかがいつきの兄・広斗に助けられるシーンが本っっ当に素敵で、子供の頃に近所のお兄ちゃんに憧れていた気持ちを思い出しました。 https://i.imgur.com/sMopUPc.png (『まどかのひみつ』金魚鉢でめ 1話より) **「小学生の男の子と女の子がメインで、毎回可愛い・格好いいお洋服が登場して、自分らしさを周りの年上の人達が認めてくれる」。** このまどかのひみつの「世界が優しい」感じ、なんか馴染みがあるなあと考えてみたら、アラサーのバイブル・カードキャプターさくらと通じる部分があるからでした。**金魚鉢でめ先生の繊細な絵で描かれる、「それぞれが持つ自分らしさ」をみんなが大切に受け止めてくれる世界。本当に美しくて優しくて、読んでいて心に染みます。** https://i.imgur.com/IS0nhGj.png (『まどかのひみつ』金魚鉢でめ 2話より) **ページのどこを開いても美しい絵ばっかりで、眼福に浸っているとあっという間に1巻読み切ってしまいます。**優しい全1巻だと気づいたときの衝撃たるや…悲しかったです。2人がどんな大人になるのかメチャクチャ気になるので、ぜひ売れて続編が出ることを願っています。 https://comic.pixiv.net/works/5257